海の物語、空の物語、人の心の愛の物語2007年の10月にブログ開始3周年を迎えました。 そこで3周年にちなんで自分なりに想いをこめた日記を書こうと思いました。2007年の夏のことです。 ブログを通して自分が追いかけてきた何かを考えてみると、それは三つに集約されるような気がして、三つのテーマに分けて日記を三つかこうと考えたのです。 以下の文章は、そんな風に考えた結果、生まれた三つの日記をまとめたものです。 ☆☆☆☆☆☆☆ 『海の物語、空の物語、人の心の愛の物語 ~前編~ 』2007/10/25 ルカの街並日記より あなたが、はじめて海を見たのはいつですか? その時 誰と一緒に海へ出かけましたか? 僕が生まれて初めて海を見たのは幼稚園に入る少し前だったように覚えています。 家族と一緒に海へ出かけました。 広い草原の丘を登りながら、辿り着いた頂上から視界に広がった海、どこまでも広がる海。 言葉に形容出来ない強い感動に心が支配されたことを今でも覚えています。 あれから、30年ほどの年月がたちました。 はじめて海を見た時に生まれた果てしない憧憬。 今でも海に想い焦がれている自分がいます。 あなたが、よく見る夢は どんな夢ですか? あるいは、 どんな夢を見た時に心から感動しますか? 朝に目が覚めて「ああ、なんて素敵な夢だったのだろう・・・・・」と思い出し、 その後に何日も或いは何年も、いつまでも忘れることが出来ない、そんな美しい夢。 あなたにも過去に、そうした夢の思い出の一つや二つありませんか? 僕には沢山あります。 自分が見る夢で、いつまでも忘れることが出来ない美しい夢には決まって三つの要素・舞台設定が揃っています。 理由はよく分からないのですが、この三つが揃うと必ず素晴らしい夢になります。 今までに見た夢の中で、 美しすぎて涙が零れそうになるほど感動した夢の世界に共通する三つとは次のものです。 ひとつが 海。 もうひとつが 空。 そして、もうひとつが 人々の笑顔です。 『海の物語、空の物語、人の心の愛の物語 ~中編~ 』2007/11/27 ルカの街並日記より 楽しい時には、空はとても眩しく見えるものです。 だけど 哀しい時には、自分の心と一緒に 空まで泣き出しそうに瞳に映ります。 好きな人といる時には、空に浮かんだ雲が踊っているように見えるものです。 だけど 誰かと喧嘩した後に見上げる空は、透き通っていても、そうでなくても、まるで嵐のように瞳に映ります。 つまらない時間を過ごしていた時に見上げた空は、とても憂鬱だったのに、 誰かの愛を感じる時には、 空はどこまでもあたたかな色彩で広がります。 人は皆、 嬉しい時、空を見ている。 悲しい時、空を見ている。 笑った時、空を見ている。 泣いたり怒ったりした時、空を見ている。 結局、いつも 空を見ている。 そして、そんな僕らを、 昼には青く、夜には星の明かりをそえて、 何事もなかったかのように、いつだって空は僕らを見守っている。 思い出の中では誰もが、夕陽が赤く燃えるように空に染まっていた風景を憶えているものです。 その時、自分の心の中も、あの空と同じように、 燃えるような情熱の色彩に焦がれ、未来を、大事な夢か何かを見つめていたはず。 息を切らしながら全力で走ったり、転んだり、 恋をしたり、夢をみたり、笑ったり泣いたり・・・・・エトセトラetc。 そんなことの繰り返しを、 空の下で。 あなたが最近、空を見上げて 泣いたのはいつですか? あなたが最近、空を見上げて 笑ったのはいつですか? http://item.rakuten.co.jp/book/3900928/ 空を見ながら泣いたり笑ったり、走ったり時に転んだりしながら、 心の底から感動出来る時、 人は「生きている」ことを強く実感し、力が沸いてくるのだと思います。 『海の物語、空の物語、人の心の愛の物語 ~後編~ 』22007/12/25 ルカの街並日記より 赤ん坊は、母親が遠くに離れて視界から見えなくなると泣き出してしまいます。 でも母親が再び目の前に現れて笑顔で語りかけると泣き声は少しずつ消えて、次第に何事もなかったかのように笑顔に戻るものです。 その時、赤ん坊は母親が目の前にいることで一体何を確認し安心するのでしょう? 赤ん坊はいつしか少年・少女へ成長し、そして大人と呼ばれる年齢になります。 誰だって皆、幼い頃には親や身近な大人たちに見守られながら、それから少しずつ成長の階段をあがって大きくなってきたはず。 少年時代あるいは少女時代をへて、いつしか大人になった今、 あなたにとって、子供の頃に母親の笑顔を身近に感じて安堵感に包まれた時のような、 そんな安らぎの代わりとなるものは一体何ですか? 僕にとって、それは多分、次の三つになります。 ひとつが 海。 もうひとつが 空。 そして、もうひとつが、 誰かと心が触れ合ったりして笑顔になれたり、 人が愛と呼ぶような、そんなあたたかな炎が心の中心に灯されたように感じる瞬間。 でも、これってよく考えると不思議な気がしてくるのです。 どうしてかというと、海にしても空にしても笑顔や愛にしても、手を伸ばせばつかめるような実体などないような気がするからです。 たとえば海へ出かけて浜辺に打ち寄せた波を手のひらにすくってみたとしても、手のひらには海は残りません。 残るのは潮の香りと幾つかの砂と透明な水。 空の広さに恋焦がれても、両手に抱きしめることも出来ません。空は、空(から)だからです。 きっと愛だって似たようなものでしょう。 海や空と同じで、近づけば近づくほどに、それは透明になり目には見えなくなり、つかもうとすればするほど手のひらから零れ落ちる。 必要な時にコンビニへ行けば買えるものでもありません。 確かな実体をつかむことなど出来ない、曖昧で不確かなものです。 だけど人は、海に想い焦がれ、悲しい時や辛い時には空を見上げる。 そして心の触れ合いや幸せを求めて、友人が出来たり、恋人と巡り合って結婚したり、家族を作り子供が生まれたりする。 何故? 多分きっと、人は皆、心のどこかで分かっているのだと思います。 両手でつかめる確かな手ごたえや確かな実体などなくても、いつだっておぼろげで曖昧で形が定まらないものであっても、 海や空や人の心の愛に感動することが、皆の命を力強く未来へ運ぶことを。 地球は他の星から見れば、その大部分が空と海で覆われた星です。 人がへばりつくように生きている大地の表面は、空や海に比べたら、小さなものです。 僕らが生きているその小さな大地を囲んでいる大きな海や空は、宇宙から見ると神秘的に青く煌いていますが、 近づけば近づくほどに不思議なほどに透き通ってゆきます。 海は生命の故郷といいます。しかし、命の故郷であるはずの海の水には、大地に咲き誇る花々のような確かな色彩がない。 同じように、空だって見渡す限り何処までも澄んで透き通っている。 まるで命を守るように覆っている大部分のものが、実は、目には見えないのだと言わんばかりに。 「大切なものは目には見えない」 (サン=テグジュペリ「星の王子様」より) 目に見えないものは、水の色彩・海の色彩・空の色彩ばかりではありません。 人の心の愛だって勿論、目には見えないものです。 話を日記の冒頭に戻しましょう。 赤ん坊は母親がいなくなると途端に泣き始めますが、 再び自分の母親が姿を現すと次第に笑顔に戻ります、という話の部分です。 小さな赤ん坊が自分の母親の存在を通して確認したいものとは、一体、何なのでしょう? きっと、赤ん坊が確認したいのは、 海や空のように大地に生きる命を守っている大きな何かと同じような、 目には見えないけれど、確かに存在する母親の「愛」。 赤ん坊は、それが自分の命とこの世界とを確かに強く結び付けていることを知っているのかもしれません。 海、空、そして大地に生きる人々の心の中の愛。 それらには確かな目に見える実体などなくとも、 たとえ手のひらから零れ落ちてしまうものだとしても、 海と空と人の心の中には、いつだって、この世でもっとも美しい光がキラキラ輝いているのです。 それは、まるで、 海原に煌く光の粒子のように。 雲の切れ間から降り注ぐ一筋の眩しい光のように、雨の後に大空に浮かんだ虹のように。 人々の笑顔のように。 |